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小野名誉教授が 茨城新聞の『茨城論壇』に記事を執筆しています

本学園茨城女子短期大学の小野名誉教授の連載記事が、茨城新聞『茨城論壇』に掲載されました。

掲載された記事を以下に転載しています。ぜひご覧ください。


第1回 2025年4月26日土曜日掲載

作品と人柄の爽やかさ

 長塚節文学賞は今年で第28回を迎えます。常総市出身の歌人であり小説家の長塚節を顕彰し、短編小説・短歌・俳句の作品を公募し、「節のふるさと常総」の文化を全国に発信していこうとするものです。本稿では、短編小説部門の審査に当たり、近来特に印象に残ること書き留めたい。

はじめに節のふるさと文化づくり協議会の神達岳志会長、長塚節文学賞運営委員会の飯塚富雄会長、協力者で長塚節研究会会長の桐原光明先生、常総市教育委員会生涯学習課の皆様のご尽力に深く敬意とお礼を申し上げます。

コロナ禍の為に2020(令和2)年の第23回から2022(令和4)年の第25回までの表彰式は規模縮小の為、来賓や審査員は出席しないという方向で行われ、第26回(2023年)からの表彰式は、従来通り豊田城(常総市地域交流センター)のホールで行われるようになりました。

そのようなコロナ禍の中での第25回に大賞を受賞された長谷川大介さんの努力に報いたい。長谷川さんとお会いしたのは、2019(令和元)年の第22回の表彰式でした。長谷川さんのこの時の作品は「あま吹く舞台風」で優秀賞を受賞されました。私は、この作品の文章力や構成力が大変に良かったので、強く推しましたが、残念ながら次点となり、私自身も残念な思いが残りました。しかし、表彰式後記念写真を撮影しながら長谷川さんは、「又、頑張ります」と、明るく溌溂としておられました。その長谷川さんの姿に私は、爽やかさと清々しさを感じました。

 長谷川さんについては、これは後から分かったことですが、審査員には作品以外は何の情報も与えられません。そのため長谷川さんがどの様な方かは知る由もありません。ましてや総ての応募された方々につきましても応募作品以外は何も分からない状態で、三人の審査員がそれぞれの基準で評価したものを持ち寄って審議し決定することになります。

 過去の『土のふるさと 長塚節文学賞入選作品集』を紐解いて見ますと、長谷川さんの作品は、次のように入選されていました。「第17回(2014年)「巡る舞台」佳作 第21回(2018年)「夏風の形象」佳作 第22回(2019年)「あま吹く舞台風」優秀賞 第25回(2022年)「ロングジャンプ」大賞」 

 「巡る舞台」は人形劇。「夏風の形象」のヒロインは劇団員。「あま吹く舞台風」各作品共に演劇に関することが題材。大賞となった「ロングジャンプ」について荻野アンナ先生は、「複雑な家庭の少年が走り幅跳びを通して成長していく過程を過不足なく描きこんで、読後感が爽やかである」とされ、細谷瑞枝先生は、「簡潔な短文を重ねる筆致は、小学生最後となる陸上競技大会に緊張しながらも冷静に臨む主人公とよく合っていて、念願の記録を達成するラストシーンは、翔太が今後たくましく成長していくことを予感させてさわやかだ」と評価されています。私の評としては、「優しい祖父、どうしょうもない父親、病弱で亡くなってしまう母親。主人公の少年は、目標を持ちつづけ、頑張っている様子が豊富な語彙で和語と漢語を使用して巧みに表現されている」と評価しました。長谷川さんの作品についての爽やかさは勿論のこと、その人柄にも爽やかで清々しさを感じました。フランスの食物学者ビュフォンが初めて使ったといわれる〝文は人なり〟そのもの。長谷川さんの長年にわたり諦めずに書き続けられたその忍耐力と努力された熱意に深く敬意を表したたえたい。


第2回 2025年6月28日土曜日掲載

夫の遺志継ぐ豊田芙雄 

婦人運動家山川菊栄の母青山千世は、お茶の水女子師範学校の第一期の卒業生で、祖父の青山延寿は、水戸藩の儒学者であった。菊栄は、水戸藩青山家伝来の珍しい資料や母千世からの聞き書き等によって、『武家の女性』(1938年)や『女二代の記』(1956年)や『幕末の水戸藩』(1975年第2回大仏次郎賞受賞)の著書があり、これらの書籍には、旧水戸藩を中心とした幕末から明治にかけての世相が詳しく描かれている。ここでは、同じ旧水戸藩の出身であり、学問の家庭に育まれ、環境も同じようであった豊田芙雄について山川菊栄はどのように描いているかについて前記三冊の社会史ものを参照しながら見ていきたい。

 1875年11月29日、お茶の水女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の開校式が行われた。その中に旧水戸藩儒家の娘二人が参列した。その一人は、読書教員としての豊田芙雄31歳であり、もう一人は70余名中の首席入学生の青山千世18歳であった。芙雄の母雪子は、藤田幽谷の娘で、兄には藤田東湖がおり、桑原幾太郎に嫁いだ。雪子には二男、二女がいる。芙雄は次女で元の名前は冬であったが、結婚後、夫の豊田小太郎が京都で暗殺されてしまい、夫の分まで生きようと男名の芙雄とし、ここに並々ならぬ一大決心があった。小太郎の尊王開国主義は、攘夷派の人々には受け入れられなかったことにより他人の心は中々変えることはできないが、自分自身は変えることが出来る。亡くなってしまった夫をいつまでも悲しみ涙していても過去は戻らないことを悟りポジティブに生きようと決心している。このことが若き日の芙雄の人生の大きなターニングポイントとなっている。

芙雄の書いた夫小太郎を追悼する記録が残されている。以下の資料は総て茨城県立歴史館高橋清賀子家(豊田芙雄関係文書)によるものである。この手記は、立てが30センチで長さは2メートル14センチもあり大変長いもので、変体仮名表記で小太郎の死後約一年後に書かれた追悼文であり、弔詞とも言えるものである。構成としては、初めに序文があり、これは通常の文章体で書かれており、次に長歌があり、その後に短歌が九首掲げられている。芙雄の小太郎への熱い思いと追悼の心と強い決意が表れている。小太郎の生き方や考え方については、「背の君はひとすじに誠の道を人にふましめて平らけき世になさばやとの真心におはし給ふなれば、」と書き、自分も「さばかり歎き奉るにもなんあらぬ。」と現実をしっかり受け止めて生きていかなければならないと芙雄は自分自身に言い聞かせているが、封建制のこの時代における夫小太郎の「平らけき世になさばや」との熱い思いには先進性を見出すことができよう。このような進歩的な考え方は、芙雄のこれからの人生に大きな影響を与えることにもなる。

短歌を二首引こう。「たふれらか 為ことわざは さもあらばあれ 天かげりても 君守りませ」「背の君の やすかれとのみ 我たまの あらん限りは 祈りしものを」「天かげりても君守りませ」とあって、夫の思いを成し遂げようとする強い決意が窺われよう。「我たまの あらん限りは祈りしものを」にも夫への熱い思いが伝わる。尊皇開国主義を貫き、新しい国を造ろうとした小太郎の道半ばで命を落としたことに対しての深い思いやりと、夫の遺志を継ごうという決意が見て取れるが、巻末の「慶応みつのとし 秋の長月はつかまりなぬかといへるに 悲しみのあまりかくなん。 冬子」とあるのがとても切ない。

 今後も連載されますので、お楽しみになさってください。

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