小野名誉教授執筆の 茨城新聞『茨城論壇』の第3回が掲載されました

本学園茨城女子短期大学の小野名誉教授の連載記事 第3回が、茨城新聞『茨城論壇』に掲載されました。

掲載された記事を以下に転載しています。ぜひご覧ください。


第3回 2025年8月30日土曜日掲載

水戸の武家で学び培う

『武家の女性』で、「東湖の妹婿の桑原幾太郎の孫政さんという子なども、延寿のお弟子の中で指折りの秀才」とあり、さすがに血筋は争われぬとしているが、政は幾太郎の孫では無く次男である。「お塾の先生が江戸へ出て帰るときなどには、お弟子たちは水戸の一つ手前の駅、長岡まで出迎えた」とある。

芙雄が発桜女学校(現在の水戸市立五軒小学校)を辞し、上京時にも生徒たちは長岡の宿まで見送りに来ており、芙雄は子どもたちに別れの挨拶をしている。「上京にあたり発桜女学校生徒へ与える辞」(1875年11月23日)の中で、先ず月日の早く過ぎ去ることを述べ、「学事に勤め侍れと又さらにひたすら婦徳を修め文質彬々たる女君子」に豊田芙雄の教育理念があり、これらの教えは生涯にわたり貫いている。

晩年の水戸市大成女学校(現在の大成女子高)の校長時代には「人格高き女子を造れ」を標榜し、『いはらき』新聞(1924年1月11日)の「水戸の婦人に望むこと」の中では、「表面の事のみ止まつてゐてあまりに精神的のところが欠けている様です」と述べ、只今の教育のやうに、たゞ知にのみ走る事は精神の美の失はれてしまふもので、また教育者そのものもたゞ学芸技術を授けるだけでは到底真の教育は出来ない。つまり『まづその人を得よ』であると思ひます」とあり、ここにも芙雄の教育観の一面を垣間見ることが出来る。これらの精神の原点は、幼少時からの水戸藩という武家の環境と儒学者の家庭環境によって培われてきたものであり、水戸でなければこのような人材は育たなかったことであろう。幕末の天狗、諸生の争乱において女子故に生き延び水戸学の精神を受け継いだ女丈夫とも言えよう。

また、『武家の女性』には、当時の「水戸では、女に学問をさせると縁が遠くなるとか、また血筋をよそに持っていかれるとかいって厭がりました。」とあり、「藤田東湖の妹たちはみな仕込まれた様子で、武田耕雲のよめとなったいくが、元治の乱の後、入牢中、子供らに『論語』を教えた話も伝わっており、豊田芙雄刀自の話では久木直次郎の妻となったますも才学があり、烈公の侍女となっていたころ、御殿では朋輩の妬みを避けて、本箱をうしろ向きにして壁におしつけ、人の見る所では書物を手にしないように気をつけていたということです。」とある。久木直次郎に嫁いだ三女のますは、特に学問があり、紫式部の異名をとった程であると芙雄自身も語っており、同輩から妬まれたようである。武田耕雲斎の長男武田彦衛門に嫁いだのは四女のいくで、獄中で自分だけが助かるわけにはいかないと絶食し、43歳で亡くなる。

芙雄については、「少女時代を父君や兄君力太郎と共に江戸藩邸に送りました。そのころ同じ長屋に深作治十という人の妻ふでという夫人が能筆でもあり、礼式にくわしく、家中の娘たちを教えたほか、小笠原壱岐守の御殿へも出入りしていたそうです。この人は女子教育の功労者として特に藩から扶持を賜った例のないことでした。」とあり、「刀自は、政崎巌という藩士のところへ毎夜通って『史記』、『漢書』を学び、家庭では経書を学んだということでしたが、これも当時としてはあまり例のなかったことでしょう。」とある。

他にも歌を詠んだり書をよくする婦人はいたが、それらは、父か母かにその心得があり、「家の伝統によるもので、一般には、女は平仮名で手紙のやり取りができれば十分とされていました。」とある。

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