小野名誉教授の連載記事 第9回が、茨城新聞『茨城論壇』に掲載されました。

本学園茨城女子短期大学の小野名誉教授の連載記事 第9回が、茨城新聞『茨城論壇』に掲載されました。

掲載された記事を以下に転載しています。ぜひご覧ください。


第9回 2026年09月26日土曜日掲載

 

小野孝尚 

賢治を愛した竹内浩三                                  

9月4日の本紙県西版に、三重県出身の若き戦没詩人、竹内浩三についての記事が掲載された。同研究会の方が、今秋下妻市周辺で軌跡をたどる見学会を開くための下見に来られた。

竹内は、1943(昭和18)年9月、西筑波飛行場(現在はつくば市)に新たに編成された滑空部隊(グライダー部隊)に転属し、搭乗兵員として挺進第五聯隊に所属した。軍隊での生活を克明に記録したのが『筑波日記』であった。『筑波日記』と題された日記は手帳に書かれ2冊が残されている。

1944(同19)年1月1日から同年の4月28日までには、サブタイトルとして「冬から春へ」とある。2冊目の手帳には「みどりの季節」とあり、同年4月29日~7月27日までの記録である。日記の中から抄録しよう。

2月4日、バスデ下妻ヘ、マズ行ク。『雨ニモマケズ』ト云ウ、宮沢賢治ノ伝記ト、高見順ノ『文芸雑誌』ヲ買ウ。前者ニ読ミフケル。頭ヲ刈ッタ。スシヲ喰ッタ。ビフテキ、メンチボール、ウドンヲ喰ッタ。イツモノコースドオリ汽車デ宗道ヘ行キ、宗道カラ、バスデ吉沼ヘ行ッタ。十一屋サンデ餅ノゴチソウニナッタ。二冊ノ本ヲ十一屋サンヘアズケタ。『雨ニモマケズ』ハ三分ノ二ホド読ンダ。宮沢賢治ヲ、ココロカラウラヤマシクオモッタ。ボクハ、コノ日記ヲ大事ニシヨウト云ウ気ガマスマス強クナッテキタ。コノ日記ヲツケルタメニダケデ、カナリ大キナ支障ガ日日ノツトメノ上ニキタス。ソレホドヒマガナイ。シカシ、コノ日記ハオロソカニハスマイ。

下妻ノ町ヲ、ボクハ好キダ。タベモノガドッサリアル。火見櫓ヤ、ポストヤ、 停車場ガ気ニイッタ。コノ町ノ女学校ノ先生ニデモナロウカト、本気デナンドモ考エタ。ガタガタノバスヤ、ゴトゴトノ軽便ガ好キダ。軽便汽車ノ中ノ、ランプヤオ婆サンノ顔ヲ好キダ。女学校ノ校庭ノポプラヲ好キダ。筑波山ヲカスメル白イ雲ヲ好キダ。

この中で注目するのは、よく食べることであり、宮沢賢治の愛読者であり、日記の中には、数か所賢治の名前がある。中でも賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」が『筑波日記 みどりの季節』の巻頭に置かれている。そしてこの日記を大事にすることである。日記は、記録ではあるが、自己を改めて確認する意味でのアプローチでもある。「下妻ノ町ヲ、ボクハ好キダ。」と書いていることも見逃せない。下妻は、風土的にも住まう人々も文化的な香り高い地域であり、下妻ゆかりの詩人には横瀬夜雨や中山省三郎や上野壮夫等を挙げることができる。食べ物がたくさんあり、停車場があり、女学校があり、書店があり、食堂があり、床屋があり、時計屋がある。筑波山を望める街並みがある。竹内にとっては、精神的にも身体的にも満たしてくれるものが下妻にはある。

5月23日には、「赤塚の駅前で、子供が部隊をよこぎったと云って、中隊長は刀を抜いて、子供を追っかけた。本気でやっているのである。その子供の一生の内で、これが一番おそろしかったことになるであろうと思った。」とある。竹内の子どもを思う心は、仏教でいう四摂法の同事の立場で心をかよわせていよう。

賢治を愛し、良寛にあこがれ純朴で純粋な優しい人柄であったことが日記の隅々にうかがえる。その後12月1日、戦時編制により滑空歩兵第一連隊となった竹内の部隊は、西筑波飛行場を出発したが、1945(昭和20)年4月9日、フィリッピンバギオ北方1052高地方面の戦闘に於いて戦死。23歳の若さが惜しまれる。 

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