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第4回 2025年11月01日土曜日掲載
山川菊栄の温かい描写
「深作治十」夫人のふでは、小笠原流礼法にも関係していた。芙雄は1857年5月に「小笠原女礼一~三」を書写している。「政崎巌の塾」とあるが、芙雄の「茫々八十年の回顧」によると現在の水戸市栄町一丁目辺りに住んでいた川崎巌の塾である。懐剣を帯に手挟み、提灯はわざと持たずに毎夜三年間通ったとある。
『女二代の記』では、「豊田芙雄さんは水戸藩の人、大日本史編修、弘道館教授として功のあった豊田天功の息子小太郎の妻でした。小太郎は藩命で長崎に留学、蘭学や工業技術を学び、烈公の信任の厚かった人ですが、開国派だというので京都で攘夷党に暗殺され、新婚まもない芙雄さんは十代の若後家となって維新を迎えました。母は藤田東湖の妹、父も水戸藩知名の士桑原力太郎で、小石川御殿のお長屋で育ち、同じお長屋に住む先生の所に通って史記や漢書を習ったそうでした。晩年の芙雄さんは私にお茶の水の昔話をして、『私も先生をやめて生徒になりたかったのですがね。家庭の事情が許さないのでやむをえず先生をしていましたよ、できないのにね』と無邪気な高笑いをしましたが、こんなふうにこの人は至ってあけっ放しの、さらっとした性格でいやみがなく、わからないことは正直にわからないといい、『ほかの先生にうかがって見て』と正直にいって、次の機会にそれを報告するので生徒に好かれたそうです。」とある。父の名前が「桑原力太郎」とあるが、正しくは、幾太郎で力太郎は長男の名前である。
後年、山川菊栄は母の青山千世と共に水戸の芙雄宅を訪ねている。『幕末の水戸藩』には、「豊田天功は文久三年一月に病死したが、その息子小太郎は水戸に乏しい蘭学者、開国論者として貴重な存在だったが、市川一派の独裁と相いれず、水戸を脱して京都にのがれ、外国の学問の研究に努めていた。彼は本圀寺派の啓蒙に尽くしていたが、慶応二年、たまたま議論が熱した余り、売国奴と罵られてつるし斬りにされたとか、めった斬りにされたとかいう。それを敢えてした下手人は、吉成勇太郎の部下だったとか伝えられたが、事件は責任者不明のまま葬られた。」とある。『日本人名大事典』(新撰大人名辞典 平凡社)によると小太郎は、「開国進取の長計を建て、斡旋奔走中、九月二日夜、堀河通行の際同藩異論者に害せらる。」とある。吉成 勇太郎信順は、幕末の志士で水戸藩士。大変な剣客であった。父は、吉成又右衛門信貞、母は青山延于の娘。弟は、吉成恒次郎一徳。青山千世は吉成勇太郎の姪にあたり、菊榮は姪の娘となる。芙雄は、『茫々八十年の回顧』の中で、「国事の手前決してそれらの人を憎む訳はありません。」と述べている。どちらも国を思う気持ちは同じであったろうからとの思いであった。
芙雄にとっては、小太郎の妻としての余りにも短い四年間ではあったが、たくさんの価値あることを学んだものと思われる。芙雄にとって最愛の夫の死は哀しみ極まるものがあったろう。しかし芙雄は、小太郎からの遺言とも言える別れの言葉「心を鬼にしてをれ」を胸に、どんなに苦しい目にあっても心をしっかり持ち、強い信念を持ってその生涯を教育という場において世の為人々の為に貫き97歳の生涯を閉じた。
山川菊栄は、同じ水戸藩ゆかりの女性の先輩として、又母千世の恩師として、同情と思いやりの心と気遣いをもって女子・幼児教育の魁となった豊田芙雄像を温かく丁寧に描いている。



