本学園茨城女子短期大学の小野名誉教授の連載記事 第8回が、茨城新聞『茨城論壇』に掲載されました。
掲載された記事を以下に転載しています。ぜひご覧ください。
小野孝尚
下条綾子の生家は、筑波野の広大な中にあって、裏筑波を望む名峰の景観地であり、紫峰筑波は何よりも身近な存在であった。綾子は、1904(明治37)年2月25日、真壁郡古里村下星谷十一番屋敷(現在は、601番地)の素封家の六人兄姉(ふじ乃、豊、義廣、亮三郎、貞徳、綾子)の末娘として生れた。下条家は『吾妻鏡』にも出ている旧家であり、常陸下条の流れを汲む家柄で字名を打出と言い下条本家として立派な長屋門のあるたたずまいである。父の泰次は、村長を勤めた。母のよしは、大国村(現在は桜川市)狩野勝八郎の二女。長兄豊は医師となり、長女ふじ乃の夫は県会議員。兄の豊は、若年時は詩を書いていた。甥の大島久重は県会議員。甥の下条正雄は元下館市長で北川冬彦主宰『時間』の同人であった。両親は、教育熱心で特に末娘に対する愛情には格別のものがあった。綾子もまたこれに答えようとした。綾子は、古里中学校から日本女子商業学校に学び、更に日本女子大に学んでいる。綾子は当時の帝国女子医学専門学校を合格する程の学力を持っていたが、文学好きが高じ、16歳の頃から創作活動が始まったと言われる。大正11年12月1日から小川芋銭・横瀬夜雨・山村暮鳥・野口雨情が監修者となって水戸から発行された文芸雑誌『郷土』に詩を発表しているようであるが、未見である。大正11年の女学校4年生の夏休みに長兄の病院で過した時に見聞したことを短編小説に書き、『文章倶楽部』(9月号)に投稿し、優秀作品となった。
しかし、女学校の慣れない都会生活から肋膜炎を患い、生家に戻り療養生活に入ることなり、回復後に再び上京し、東京本郷のアパート弥生荘の一室を借り父からの仕送りのある文筆活動に入った。この頃の様子を『現代文藝』(昭和5年11月1日第7巻第11号 素人社書屋)「秋の花束―女流日記集」の中で「一歩」と題して心境を書いている。「いよいよいろはからし直しだ。詩も歌も、否、何もかも新規蒔き直しだ。雑然たる頭の鉢を叩きこはして種子をまくのだ。そしてよりよき新芽の培養に全生命を打ち込むのだ。笑ふ者は、笑ひ、そしる者はそしれ、だまつて私はそれを受ける。だが、悲しさに耐へず、苦しさに耐えられなかつたら、決してそれを抑へようとは思はない。これまでのように――(後略)」この時の女流日記の執筆者は、生田花世、水町京子、竹内てるよ、後藤八重子、下条綾子、英美子、北見志保子、岡村須磨子の8人であった。
詩作品の発表は、川路柳虹の『炬火』や佐藤惣之助の『詩之家』に寄せ、交友のあった詩人には、梶浦正之、井上康文、草野心平、英美子等がいた。その一方では、横瀬夜雨からの指導等も受けていた。
昭和7年12月、下妻市出身の弁護士鳩貝栄一郎と結婚。鳩貝は、旧制の水戸高等学校、東京帝国大学法律学部法律学科の卒業で、後の衆議院赤城宗徳と同期。綾子は一男一女を儲け、昭和19年、太平洋戦争が激しくなり、家族で実家の下条家の書院に疎開した。昭和20年7月には、夫が突然心筋梗塞で亡くなってしまった。それからは、住まいを下妻市に移し、戦後の混乱期に二人の子どもの教育のために茨城県立下妻第二高等学校の図書館司書として働いた。下妻では、日本母親大会の生みの親である丸岡秀子が中心となって活動した「原水爆禁止」「子どもの命を守る」をスローガンに掲げた日本母親大会の開催に力をつくした。昭和38年7月7日明け方命過ぐ。享年59歳であった。



